時代が新しい音楽をつくりだし、音楽は新しいファッションスタイルを生む。私たちが普段なにげなく身にまとっているアイテムの一つひとつは、そんな時代の落とし子とも言える。時代を振り返り、音楽とファッション、そしてシューズに焦点をあてる本企画。第5回に取り上げるのは、1990年代にその関係性が絶対的になったスケートボードカルチャーとヒップホップだ。

最近では『mid90s』や『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』などスケートボードカルチャーを取り上げた映画が日本でもいくつも話題になり、さらにスケートボードが初めて競技として採用された東京2020オリンピックでは日本の堀米雄斗選手が金メダルを獲得するなど、かつてないほどスケートボードに注目が集まっている現在。

そんな今にもつながるスケートボードカルチャーのファッション的な側面の土台がつくられた時代の様子を、青春スケーター小説の名著『Big Pants―スケートボード is 素敵』の著者としても知られる柳町唯が綴る。

画面のなかでレジェンドたちが履いていたAIR JORDAN 1

1990年代はスケートボードシーンにおいて大きな変革の年だったが、とりわけヒップホップという音楽文化の台頭が与えた影響は大きく、それはスケーターたちが聴く音楽はもちろん、選ぶスニーカーをも様変わりさせたのだった。SNSのない時代、その変容を本場アメリカから日本のスケーターキッズにまで伝播させたのは、スケートボードビデオやミュージックビデオ、映画といった映像コンテンツだった。

自分がスニーカーの存在を意識したのは1987年に映画『POLICE ACADEMY 4: CITIZENS ON PATROL(邦題 ポリスアカデミー4 市民パトロール)』を見たことがきっかけだった。スケートボードを始めて1年くらいが経ち情報に飢えていた当時の自分は、劇中のスケートボードのシーンを見たことで、よりスケートボードにハマっていった。

その映像にはスティーブ・キャバレロやランス・マウンテン、トミー・ゲレロなど、今現在でもレジェンドスケーターと名高い面々が出演していた。当時小学生だった自分は、テレビの「洋画劇場」で放映されたそれを録画して、そのシーンだけを本当にテープが擦り切れるまで見ていた。

トリックだけでなく服装や履いているスニーカーまでをもチェックしていた。自分がスニーカーというものの存在を意識し始めた瞬間であった。そこで履かれているのがNIKEの「AIR JORDAN 1」だったことも驚きだった。小学生の自分にとってそれは、AIR WALKやVANSといったスケートボードシューズブランドのものよりも身近に売っているイメージがあったからだ。

「バッシュ(バスケットボールシューズ)でスケートボードをしても良いんだ!」という気づきによって、スニーカーを一気に意識するようになったわけである。それからはスケートボードが出来るバッシュを求めて量販店のワゴンセールを漁ったりしたものの、AIR JORDAN 1は流石になかったので、AVIAの蛍光イエローの差し色が眩しいバッシュを安価でゲットしたが、幼心にも「なんか違うな」と思った記憶がある。

ハイカットはブッた切っちまえ!?

その後数年はAIR WALKやVANSなどのハイカットモデルでスケートボードをしていた自分に、それは起きた。1992年のことである。

ストリートスケートボーディングの変革期だった当時は、スケートボードシューズのマーケットが現場で起きている変化の流れについていけていない時期でもあった。その変化とは、進化しているフラットトリックのために足首の可動域を広くしたいスケーターが、それまでスタンダードだったハイカットのスケートシューズをローカットに切り始めたのだ。

まさに革命であった。「足首が動かしづらいからローカットにブッた切っちまおうぜ!」な精神!

シンプルな発想からAIR WALKの「ENIGMA」やVANSのスティーブ・キャバレロモデル(のちに「HALF CAB」として発売され人気商品となる)などがローカットに切られ、その切り口にはシルバーのダクトテープが貼られた。そして、それらは雑誌やビデオを通じて世界中のスケーターに広まっていった。ローカットに切られたスニーカーが見られるビデオとしては、今なお歴史的名作と語り継がれているPlan Bの『Questionable』が有名だ。

VANS Half Cab発売20周年を記念してVANSとSupremeはハンドカットとダクトテープで当時のカスタムを再現した「Half Cab 20 Supreme Edition」を2012年に発売。キャバレロのサイン入りで、20足のみの限定生産だった。

パンクからヒップホップへ。反抗の音楽の交代劇

そのPlan B『Questionable』におけるマイク・キャロルのパートでは、音楽面でも革新的なことが起きていた。この作品が現れる以前は、Green Dayなどのメロコアやパンクバンドの反骨精神の強い楽曲がスケートボードビデオでの選曲の主流であった。それが1992年ごろを境に、Beastie Boysの『Time For Livin’』やDel Tha Funkee Homosapienの『Burnt』などといったヒップホップの曲が選ばれていく流れが生まれる。その分岐点になったのが、先の『Questionable』のマイク・キャロルのパートだったのだ。まさに新しい時代にフィットしたレベルミュージックへの移行が、スケートボードシーンでも起きていたわけである。

“百聞は一見にしかず”来日したトッププロの足元に釘付け

1993年にPlan Bが来日した際には、さらなる衝撃が走ったのである。ライダーのほぼ全員がスケートシューズを履いていない! という事態にデモンストレーションを見に行った自分は驚きを隠せなかった。

ショーン・シェフィーはPUMA「CLYDE」、マイク・キャロルはadidas「CAMPUS」、リック・ハワードはadidas「SUPERSTAR」と、どれを見てもローカットでスケートボードシューズでもなかった。情報の少なかった当時は、来日していた際の彼らの服装やシューズを目に焼き付けて、すぐさま同じ物を探し回ったのだった。

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そして、会場だった川崎クラブチッタのサウンドシステムから鳴らされていたのも、ヒップホップだった。思えば、Beastie Boysが1992年にリリースしたアルバム『Check Your Head』のジャケット写真でも履かれているスニーカーもadidas CAMPUSとPUMA CLYDEだった。点と点がつながった瞬間であり、それらをスケートボードでも履けるスニーカーとして意識し始めたのであった。

それからというもの、町の履物屋からデパートのスニーカー売り場などをディグりまくって、当時3,000 〜 4,000円の価格で投げ売りされていたCAMPUSやCLYDEを買い漁ってはスケートボードで履き潰していった。

カリーム・キャンベルのカリスマ性と多様化するシューズ選び

1993年ごろからGUESSやジルボー(MARITHE + FRANCOIS GIRBAUD)といったB-BOY御用達ブランドのオーバーサイズなデニムを合わせるスケーターが増えたのも、当時リリースされたビデオ『New World Order』でカリーム・キャンベルが見せたPUMA CLYDEをB-BOYファッションで履きこなす姿があまりにかっこよかったからだ。

影響力が強かったカリームのパートで使われていたのは、Def Jam所属のヒップホップグループOnyxの『Shiftee』など。以降、スケートボードビデオの選曲はヒップホップ一色と言っていい状況になっていった。

1995年にはB-BOYスケーターが増え、スケートボードシューズブランド以外のスニーカーでスケートボードをするのが当たり前になった。カリームはオールホワイトのadidas SUPERSTARのタンのボリュームを増すために、履き潰したスニーカーから切ったタン(日本では「ボンバリ」や「具」と呼ばれた)を挟み込み、スニーカーのボリュームアップとフィット感を増しルーズなパンツに合わせて、それもまた流行となった。

その後、カリームがReebok「WORKOUT」、ガイ・マリアーノがCONVERSE「Dr.J」のローカット、日本ではT19の尾澤彰がPONYのスニーカーを履き始め、それらのブランドもスケートボードシーンで広がっていった。

2015年にはadidas Skateboardingから過去のビデオパートを讃え、カリームのシグネイチャーとしてオールホワイトのSUPERSTARがリリースされたことも記憶に新しい。

90’sスケーター x B-BOYファッションの完成形

先の『New World Order』と同じく名門スケートカンパニーのWORLD INDUSTRIESから1995年にリリースされた名作ビデオ『20 Shot Sequence』では、ロサンゼルスのスケーター集団MENACEのパートが人気となり、登場するスケーターたちを真似てPoloやNAUTICAなどを着るスケーターが溢れかえった。彼らはスケートボードをする時以外はきれいなスニーカーに履き替えて誌面に露出し、NIKE「AIR JORDAN 10」やACG、Timberlandのイエローヌバックなどを履きこなしラッパーさながらなファッションとスター性で新たなスケーター像を築き上げた。

また、同時期のイーストコーストではZOO YORKのビデオ『MIX TAPE』が撮影されていた。ヒップホップと融合したスケートボードビデオの最高傑作と今日まで語り継がれる名作で、リリースされたのは1997年とまさにヒップホップ黄金期だった。各ライダーの着こなしも話題になりハロルド・ハンターの腰パンっぷりやFILAのスニーカーを履いてのトリックなど、エポックメイキングなシーンを挙げたらきりがない。

個人的には、ビニー・ポンテのパート内で彼がNIKE「AIR JORDAN 11 LOW IE」のホワイトを履いてスケートをしているシーンが衝撃的だった。AIR JORDAN 11を履いて高いレールに50-50グラインドをメイクする姿を見て「スケート用にこれを履いてるんだ。流石はイーストコースト……」とガツーンとくらった。

1980年代後半から1990年代中盤にかけてのこうした流れが、「スケーターってオシャレ」というイメージの原型だったと解釈している。同じ時期に変革を経験したスケートボードとヒップホップの蜜月の関係をひも解いてみると、そこには常に時代に合わせて足元を彩るスニーカーの存在がある。

消耗品であるが故に、常に新しさを求める

そして、スケーターにとってのスニーカーというモノは消耗品であると同時に、常に格好をつける一番のポイントでもある。1990年代には、まだ誰も履いていないブランドのスニーカーでスケートボードの映像や写真を残したりと、みんなが常に最先端をディグしていた。その名残りからか、その後に乱立したスケートボードシューズブランドからは革新的なデザインのスニーカーも数多くつくられた。20年以上の歳月が経った今、そうしたスニーカーはハイブランドのスニーカーラインのデザインソースともなっている。

まさにスケーターとスニーカーは切っても切れない関係であり、トリックでの消耗も早いぶん、常に新しきものを、機能性はもちろんデザイン性の高いものを探し続けているのであろう。

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