シューズをテーマにオリジナル・アートワークを創作する企画「アート・オブ・シューズ」第16弾。今回登場するのは、3DCGアーティストの藤倉麻子。ビビッドな色合いのオブジェクトで構成された、ひんやりと静かで無機質な空間。一見平穏なその世界から、あなたは知らぬ間に異空間へと導かれる…?! シュールレアリスムアート×adidas Originals「FORUM LOW」が織りなす一大幻想奇譚。

藤倉麻子は“庭師”だ。

といっても、早とちりしてはいけない。なにも藤倉は実際に庭先に出て、樹々を剪定したり、雑草をむしったり、生垣をつくったりしているわけではない。藤倉がその庭園の制作に使用しているツールは3DCG。つまり藤倉が“造園”を行う舞台とは、PCモニター上のヴァーチャル空間なのだ。それも3DCG空間を彩る多くは、巨大チューブや巨大便器などの工業製品。現実法則から逃れたそれらのオブジェクトがシュールレアリスティックな出会いを果たすことによって、藤倉の内的宇宙が投影されたような奇想の人工世界が創出されている。

「生」の匂いと手触りを欠いたその極彩色の無機質世界は、ともすればテクノロジーが過剰する近未来的ディストピアをさえ連想させるものではある。だが、ここで藤倉の作品に文明批評の意図を読み込んでしまったとしたら、それもまた迂闊な早とちりというものだ。そこに投影されているのは、藤倉が育った埼玉県郊外の風景、つまり、藤倉にとっての原風景なのだ。あるいはその根底には、藤倉が幼いころから抱いてきたモノへの偏愛がある。

「私は埼玉県にある白岡という郊外の町で育ったんですけど、作品をつくるときには私が見てきた郊外の風景にあった要素からつくっているんです。もちろん作品に描いているような風景は実在しないんですけど、例えばフェンスの向こう側や、路地の裏側に実は広がっているんじゃないかって当時なんとなく想像していたもうひとつの風景というのがあって、それは私にとっての“楽園”なんですよね」

『朝の楽しみ方』(2021)

実体を持たず、それゆえに変形自由な3Dオブジェクトで構成される“楽園”。レーモン・ルーセルが小説に描いたかの「ロクス・ソルス」を想起させるその世界観は、2021年4月に開催された藤倉の個展のタイトル《Paradise for Free》にも表れている(ちなみに音楽は、millennium paradeのメンバーでもあるermhoiが担当している)

「もともと壁とか柱とか、道路とか、水道の設備とか、なんでもいいんだけど、そういうのを見るのが私はすごい好きなんです。それらは普段、実際に使われていて機能しているんだけど、私はそうした有用性を逃れて、ただ『モノがあるという状態』として見てしまうところがある。例えば道路だったら、その上を人が通るという機能を持っているわけですけど、一方ではただそこに硬いモノがあるということでもあって、そういう状態にすごい惹かれるんですよね。モノが剥き出しの状態のままひしめき合っている“無為な世界”が、私にとって楽園のイメージでもあるんです」

“使用価値”に疲れたモノたちが、安息を求めたどり着いた平穏の世界。ついそんなストーリーを想起してしまう奇想の楽園に今回、スニーカーが迷い込んだ。藤倉がセレクトしたのは「FORUM LOW」。1990年代のadidas製バッシュを代表するこのアイテムだが、オリジナルモデルのリリースは1984年。同年に開催されたロサンゼルス大会に合わせて開発されており、アメリカのバスケットボール代表チームの選考会で選手たちが着用したことでも知られている。奇しくも一年遅れの東京大会である今年、かつ取材が行われたのがまさに開催期間であった8月であることを思うと、そのチョイスにはなんらかの意図が込められていたのではないかと深読みしたくもなるが、藤倉によればどうやら、そういうことでもないらしい。

「決め手はこの面ファスナーでした。『ベリッ』て剥がす感じ、これがすごく懐かしかったんです。私が子どものころによく履いてたスニーカーも『ベリッ』だったので。いい意味でかっこよすぎないところも好きです。私がスニーカーと聞いて思い浮かべるスニーカー像に一番近かったのがこれだったんです」

adidas Originals FORUM LOW/¥ 10,989

重要なポイントは「ベリッ」。意表をつくような回答だが、言い換えればFORUM LOWのミニマルで普遍的なデザインが藤倉にスニーカー原体験を彷彿させた、ともいえるだろう。ちなみに今回の作品においては、ただでさえミニマルなFORUM LOWが3D空間に落とし込まれたことによって、“足跡”という記号へと昇華している。グラフィックに配置されたFORUM LOWのアウトソールは、そこをかつて通ったであろう誰かの痕跡だ。

「スニーカーの裏の部分って普段はあまり見ないですよね。見えないけど存在している。例えば道路とかを歩いても、足跡そのものは地面にはプリントされませんよね。だから不可視なものなんだけど、たしかに痕跡はある。それは熱なのか記憶なのか概念なのか、なんなのか分からないけど、ただ空間を浮遊している。そういう目には見えない痕跡をあえて可視化させてみたんです」

痕跡の“持ち主”は消失し、無為な世界へと平穏に調和している

しかしどうやら話を聞き進めていくと、このグラフィック世界は「一次作品」に過ぎないらしい。どういうことか。今作の全貌は、あくまでインスタレーションなのだという。その真意を汲み取るにはまず視点を後退させ、全景を捉えなくてはならない。

「今回は、グラフィックの中に工業製品など無機的なものが乱立してる世界があって、同時に現実空間には同じような形のオブジェクトがある、という状況をつくってみました。それらが相互に干渉しあっているのか分からないくらいの距離感で存在していることで、グラフィックの中と現実空間、そのどちらでもない第三のレイヤーが別のあり方で立ち上がってくる。そういうものを匂わせたいと思ったんです」

額装されたグラフィックの前には、グラフィックに登場する3Dオブジェクトを模倣的に再現したオブジェが配置されている。そしてグラフィック世界とは異なるコンポジションを構成しながら、両者を現実の物理空間において同居させている。いわばドッペルゲンガーに遭遇してしまったかのような状況。つまり今作の全貌は、位相の異なる2つのレイヤーが接触してしまったインスタレーションだったのだ。

漂流した“本体”が向かうメタフィジカルな第三の空間。それこそ、今回藤倉が思い描いた“知の庭園”だ。シューズは動性を獲得し、幻想の舞踏へと駆り出されている

すると当然、どちらがオリジナル=本体なのか?という疑問が生じる。しかしその答えは宙吊りにされたままだ。従ってこの場は、“本体”の在処がどこかへと浮遊した、シュールな“跡地”に様変わりしてしまう。藤倉はその浮遊した本体の漂着地点を「目には見えない第三のレイヤー」と仮称しているのだ。

ここで藤倉のインスタレーションを凝視してみる。空間はかすかに歪み、綻んでいる。もし我々がそのかすかな綻びに束の間でも、「目には見えない第三のレイヤー」を、そこを浮遊するFORUM LOWの影像を幻視することができたなら、そのとき、藤倉のインスタレーションは真の意味での完成を果たすこととなるだろう。

目に見えないものでも、分かち合い共有できる

ところで、藤倉が「庭園」と出会ったのはおよそ10年前、東京外国語大学に通っていた学生のころにさかのぼる。

「大学時代にペルシア語を専攻していて、その流れでペルシャ式庭園というものを知ったんです。その以前から漠然と、郊外の街の風景の向こうに楽園のようなものを想像するのが好きだったんですけど、それがどこかペルシャ式庭園に重なって。関東平野の四角や三角が建ち並んだ無機質な風景が、中東の乾燥地帯のイスラム建築とオーバーラップしたというか」

イランのシーラーズにある有名な歴史的ペルシャ庭園「エラム庭園」 “Eram Garden Shiraz باغ ارم شیراز 02” by Mostafameraji is licensed under CC BY 4.0

古来、庭園とはある文化、ある信仰にとっての理想的な憩いの場、つまりは楽園の具現化を試みたものだったはずだ、と藤倉はいう。例えば、ペルシャ式庭園に水路が引かれているのは、乾燥地帯であるペルシャの人々にとって水こそが恵みの象徴だったからに他ならない。一方、やがて時代が下ると、庭園はそのようなある社会の共同幻想を表したものというよりも、個人の特異な妄想を具現化したような、よりプライベートな楽園へと変化していくことにもなる。一例としては、ヨーロッパにおいてマニエリスム期からバロック期にかけて貴族たちによって造られた庭園群がある。ボマルツォの怪物庭園やイゾラ・ベッラなどをはじめとする、それら奇想の庭園は、富を持て余した当時の有閑貴族たちの極私的なミクロコスモスの表現だった。

あるいはさらに時代が下ると、庭園は貴族階級の独占物ではなく、庶民にとって開かれた公共の場へとその性質を変貌させていく。例えば藤倉によれば、イランにはバーグと呼ばれる庭の形式があり、そこではある種の自由空間が形成されるケースがあるという。

「バーグという概念には、定義の方法は一通りではありませんが、もともと“四角くて囲われた地”という意味があります。イランには古くからバーグを愛する文化があって、親しい人と集まって自由に歓談を楽しむ場になっているようです。あと、かつての王がつくった建造物の遺跡のような場所に夜になると布を持って訪れて、そこで勝手にピクニックしたりして楽しんでたりもするみたいで。実は“庭園”はいろいろなところにあって、それは普通の風景の中に隠れた異なるレイヤーを発見していくことでもあるんです」

その点、藤倉ならばヴァーチャル空間に、自らの自由空間としての庭園を発見したというわけだ。その庭園とは藤倉の極私的な楽園であるが、一方でその造園作業が藤倉の主体的な意思によってのみ行われているかというと、そうでもないという。

「言語化できる部分とできない部分があるんですよね。最初にこのシーンをつくろう、みたいなのは割と言葉で考えるんです。でも一旦3D空間内になんらかの手がかりとなるようなオブジェを配置してからは、もうちょっとオートマティックというか、これとこれがあったら隣にはこれがあるはずだ、みたいな感じで、状況に反応するような感じで展開していくんです。主体性がなくなるわけじゃないんだけど、どこか流動的になってく感じがして。意識が連続していない主体みたいな。そのとき、『私』が消えてるんです」

ここに逆説がある。「自分の感覚や自分の好みを大事にしたい」と語る藤倉にとって、普遍性とは、あらかじめ企図することで逆算的にたどり着けるような地平ではない。それは個の特異性を深く突き詰めていった先でようやく到達する、極小の点のようなものなのだ。

「世の中を見る方法、景色を見る方法をすごく純粋化してくと、ただの記号になるんですよね。そういうものの方が普遍的なものを分かりやすく提示してくれるんじゃないかなって思って。分かりやすく社会的なテーマだったり、あらかじめ普遍的なものをテーマにする方法もあるとは思うけど、私はむしろ、自分の極私的なものの見方でとことん落とし込んでいった方が普遍性を獲得しうるんじゃないかなって思っていて」

あるいは、それはプロダクトデザインにおいても同じかもしれない。例えばFORUM LOWだって、そもそもデイリーユースに焦点を当てて製造されたものではなかったはずだ。バスケットボールの試合という特殊な状況下での使用に特化し、機能性を追求していった結果として生み出されたデザインは、めぐりめぐって現在、幅広い層からの支持を獲得し、普遍的に愛される定番デザインとなっている。実際、あらかじめ大衆をターゲットに会議ベースでつくられたような、社会の空気を弁えたデザインというものは、えてして凡庸になりがちだ。

人々の心を普遍的に打つような何かは、あなたがあなたであるということを突き詰めていった先にこそある。藤倉がヴァーチャルに切り拓いた極私的な楽園は、同時に私たちの誰もがそこで憩うことを許された、目には見えないバーグの在処を指し示しているのかもしれない。

Profile

藤倉 麻子(ふじくら・あさこ)

1992年生まれ。東京外国語大学南・西アジア課程ペルシア語専攻卒業。東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻修了。現代都市における時間と土地の連続から解放され得る景色を蓄積する。3DCGにより生成したイメージや、空間表現などを中心に制作を行う。主な個展に「群生地放送」(NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]、2018)、グループ展に「FLUSH-水に流せば-」(EUKARYOTE、東京、2021)、「多層世界の中のもうひとつのミュージアム——ハイパーICCへようこそ」(NTTインターコミュニケーション・センター [ICC] 、東京、2021)、「土字旁・人字邊 Close to Nature, Next to Humanity」(臺東美術館、台東、台湾、2020)などがある。「LUMINE meets ART AWARD 2019-2020」グランプリ受賞。「第22回 文化庁メディア芸術祭」アート部門、審査委員会推薦作品選出。

http://www.asakofujikura.com/

Instagram @asakurage

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