



Shoes × Culture
アート・オブ・シューズ
シューズをテーマにオリジナル・アートワークを創作する企画「アート・オブ・シューズ」第22弾、今回は超批評の特別編! 登場するのは、レーザーアニメーションを駆使したインスタレーション/パフォーマンスアート/VJなどで話題を集める若手アーティストデュオ、MES。ギャラリースペースやストリート、クラブイベントと都市のあまねくフィールドで活躍する二人が、adidas Originals「SUPERSTAR」を用いたパフォーマンス「四つ足の生き物」とは?! 分断の時代に切望される人と人との“親密さ”が、渋谷でのある一夜に表露した全記録!
その夜、たしかに一度、それは毀損されたのだ。抵抗の意志を込めて放たれた青色の光線は、少なくともその数秒間、国威を象徴するように仰々しく屹立するあの黄灰色のファサードに、誰もが知る不敵なハンドサインを浮上させていた。しかし今日、その光線の痕跡は目視できるかたちでは残っていない。ただ密やかに展示された映像と写真に、そのとき、そこで行われた「抵抗」の一部始終が記録されている──。
2021年6月、代々木のギャラリーTOHにて、たった1週間という短い会期で開催されたMESの展示「DISTANCE OF RESISTANCE/抵抗の距離」の話だ。

個展「DISTANCE OF RESISTANCE/抵抗の距離」(2021年)。東京の街を舞台に、「暗くなっている」場所に向けてレーザーのメッセージを照らし出す数々のストリートパフォーマンスとその記録を展示した
デザイン:山田悠太朗

『忘却/OBLIVION』(2019年)。ABC-MART渋谷神南店の入ったビルも、かつてパフォーマンスの“スクリーン”に
果たして、その「抵抗」は成功したのだろうか。あの夜、「僕ら」と「彼ら」とのあいだをつないだ光線は、間違いなくひとつの希望と呼ぶべきものだっただろう。だが同時に、その光線はそこに埋めがたき「距離」があるということをも、冷やかに示していた。
「距離」は残酷で、そして優しい。「彼ら」の権威を揺るがすことを阻んでいるその「距離」は、同時に「僕ら」の身の安全を守っている「距離」でもある。いつだってそう。希望はたやすく失望へと反転する。そして、あのお決まりの諦念が、性懲りもなく首をもたげてくる。

事実、その「抵抗」によって何が変わったというのだろうか。おそらく、何も変わってはいない。あるいは「彼ら」は、それがそこで起こったということにさえ気づいていないかもしれない。かくして挫折は反復していく。だからこそ僕らはしかと記憶しておかなければならないのだ。今日、「僕ら」と「彼ら」とのあいだを隔てている光線分の「距離」を。アンビバレンスに引き裂かれた、その「抵抗の距離」を。



KANAEとTAKERU、ともに東京藝大の学生だった二人によって2015年に結成されたアーティストデュオ・MESは、ここ数年、ずっと「距離」と、その「距離」がはらむアンビバレンスに向き合ってきた。「抵抗の距離」展ばかりではない。2021年の夏に宮城県石巻市で開催されたReborn-Art Festivalにおいてもそうだった。鶴の湯という廃業した老舗銭湯施設を会場に二人が展開した巨大なインスタレーション『サイ』には、二人が銭湯という男/女が厳格に区画された空間に対して抱いたアクチュアルな問題意識と、そうした問題意識を震災に傷ついた地方の街場へと持ち込むことに対する等身大の逡巡が、生々しい痕跡となって満ちていた。詰めきることのできない「距離」への戸惑い。作品のステイトメントに綴られていた言葉が実に印象的だった。
「線が積み上がって壁になる。壁によって私たちに分断が生まれるのだから、壁は取り払うもので、壁によって私たちは守られるのだから、壁は建て続けるものである」

『サイ』(2021年、Reborn-Art Festival)。サーモカメラを用い、「復興五輪」と謳われた東京オリパラと石巻の「復興」の過程を参照した
写真:後藤武浩 写真提供:Reborn-Art Festival 2021-22
ともすれば堂々巡りの葛藤を、並々ならぬ制作への情熱によって糊塗しながら彼方此方で活動を続けてきたMESは、今日、間違いなく最も注目すべき若手現代アーティストの一組だろう。そのMESが今回、ABC-MART GRAND STAGEとのコラボレーションに参加した。向き合ったテーマは「ふたりの距離」だった。
「私たちは普段、レーザーやテープ、あるいはロウソクとか、そういう物質的なメディアを用いて表現することが多いんです。今回も最初はそうしようかと思ったんですけど、TAKERUが突然、靴同士をつなげてみないかって言い出して。たしかにこのユニットでこれまで作品を制作してきて、その関係性はそれなりに実証してきているから、ここで一度、二人の距離、関係性を作品にしてみるというのは面白いかもしれないって思ったんです」(KANAE)
「その上でその距離感を視覚化するにはどうするのが良いだろうと考えました。結局、今回は靴を大量のカラフルな紐でつないでみることにして、さらにそのつながれた靴を二人で履いて自分たちが普段活動している渋谷の街を歩き回るというパフォーマンスを行うことにしたんです」(TAKERU)
この日、二人と待ち合わせたのは渋谷のMIYASHITA PARK 1F、明治通りに面したadidasのショップ前だった。現代アートの場のみならず、クラブシーンやストリートにおいても意欲的な活動を行うMESにとって、2015年以来、渋谷は第二のホームタウンと呼ぶべき場所となっている。白いプレーンパーカーに白いスウェットパンツというおそろいのいでたちで現れた二人は、ただでさえカラフルなこの街の雑踏においても一際目立つ。その後ろ姿にはどことなく、渋谷の街を舞台にしたヒキタクニオ原作、薗田賢次監督の青春映画『凶気の桜』の主人公・山口進の姿を彷彿させられる。
予定されていた最終目的地は道玄坂のクラブ「Contact Tokyo」。早速、二人が用意したシューズに履き替えて街を歩き出すと、その周囲を踊るような足取りで旋回しながら、カメラで撮影している人物がいた。写真家の遠藤文香。2021年発表の北海道の動植物をアニミスティックに表現した写真作品シリーズ『Kamuy Mosir』で一躍脚光を浴び、同年の「写真新世紀」にも佳作入選を果たした、今注目の写真作家だ。
「遠藤なしにはこの作品は成立しないって思ったんですよ。だから、今回は写真家として指名させてもらいました」(TAKERU)

MESと藝大時代からの友人である写真家・遠藤文香(奥)。ここ数年はMESのアー写のすべてを手がけている。今回の制作は、撮影技術やセンスのみならず、身体のリズム感、波長、あるいは人間性においても、二人が絶対的な信頼を寄せている遠藤とのコラボレーションワークでもあった
そして今回、MESの二人が選んだシューズはadidas Originals「SUPERSTAR」だった。1969年にバスケットボールシューズとして誕生してから半世紀、80年代にはかのRun-D.M.C.の足元を鮮やかに飾り、90年代にはマーク・ゴンザレスらプロスケーターたちにも愛用されストリートでも脚光を浴びるなど、シーンの垣根を越えて愛され続けてきたadidasのシンボルともいうべきスニーカーだ。
なかでも今回セレクトされたのは、サイド部分がパーフォレーションにデザインされたスポーティーなモデル。別段、SUPERSTARのオールラウンダーな性格に、複数のカルチャーに跨って領域横断的な活動を行う自分たちの存在を投影した、とかではないらしい。決め手となったのは、時代を超えて洗練されたミニマルなシルエットと、そのパーフォレーションデザインだった。

adidas Originals SST/¥15,400
今作に使用された大量のカラフルなロングシューレースは、MES自ら仕入れたもの。だがこのパーフォレーションデザインのSUPERSTARにも、マルチカラーのシューレースがあらかじめ付属している
「靴をつなげるための紐をなるべく靴を傷つけないかたちで通したかったんですよね。このデザインならうまく“ハック”できるなと思ったんです」(TAKERU)
「人間って多孔質な生き物じゃないですか。実はそこからもいろんな情報が入ってきてる。そこに等間隔に穴の空いた生地が重なったんです。その穴に紐をかけて電線のようにふたつをつなぐことで、普段とは違うかたちのコミュニケーションをしてみたかったんですよ」(KANAE)
実はパフォーマンスの舞台を渋谷に設定したことと、衣装、シューズをともにプレーンな白で統一したことにも関係があるらしい。

「僕たちが渋谷に出入りするようになったのは2015年くらいで、ちょうどオリンピックが決まって渋谷の街の再編成が始まったころだったんです。その後、クラブとかも摘発されたりして、街がどんどん切り取られていって、人を立ち止まらせずにずっと回流させていくような、潔癖で無菌室な街に変わっていくのを見てきたんですよね」(TAKERU)
「漂白された街、と言ってしまうとクリシェっぽいですけど、渋谷は今すごい漂白されてて、どのテナントにも同じショップが入ってる。ピンポイントな場所以外はどこも面白いところがない。MESの価値観を形成したのはこの街なんだけど、一方でそういう今の渋谷への評価みたいなのもある。でも、白って汚れやすい色でもあるんですよね。今日はパフォーマンスで付着した汚れを汚れたままにして、それさえも見せたいと思っていて、それで全身を白い格好に統一したんです」(KANAE)

均質化してゆく街並みへのアイロニーだなんて、そんなことを“ここ”で書くこと自体、なんとも“白々”しいというものかもしれない。だが、ストリートワイズはいつだって獅子身中の懐においてこそハッキングを試みてきた。それに、一見、隅々まで清潔に整備された街にだって、目を凝らし、その解像度を上げてみれば、思わぬところにその綻びを発見することができる。
「今日、集合した場所って、宮下公園がMIYASHITA PARKになったとき、もともとあった歩道橋を切って、半ば強引に2Fの通路へとつなげたところなんです。そのつなぎ目はよく見たらすごい違和感があるけど、ぱっと見はひとつのものになってる。実は渋谷という街はそういう継ぎはぎだらけなんです。そうした継ぎはぎを発見していくことは面白いし、そこから何か別の可能性を開いていけるような気がするんですよね」(KANAE)

再開発につれて潔癖に整備されても、目を凝らせば至る所に見えてくる“継ぎはぎ”こそ渋谷の現在地
バラバラだったはずのものをひとつにしてしまうことへの違和感は、今回の作品のコンセプトにも織り込まれている。つながれた一足の靴を二人の人間が片足ずつ履いて歩行するというパフォーマンスに直ちに連想させられるのは、運動会などの競技としても馴染み深い「二人三脚」だが、KANAEいわく、今回のパフォーマンスに関してその表現を用いることは適切ではない。
「私たちが小・中学生のときって30人31脚とかやらされましたよね(笑)。あるいはバインドして努力することを一般に二人三脚って表現したりもする。でも本当はやっぱり二人四脚なんですよ。三脚というのはあくまでも比喩。一致団結もそうだけど、ひとつになって力を合わせることがある種の美談として語られていることには違和感があって、私としてはちゃんとバラバラの個を認めた上でつながりたいという気持ちがあるんです」(KANAE)


二人三脚ではなく二人四脚、今回、その微妙な差異を担保していたのは、靴と靴とをつなぎ合わせた紐の長さ、最長2メートルに設定された「二人の距離」だ。この2メートルという距離は、コロナ禍において政府が他人とのあいだに取るべき安全なディスタンスとして定めた数値でもある。果たしてその数値にいかほどの根拠があるのかは不明だが、それはさておくとしても、逆からいうとその2メートルの範囲内であれば「密」、すなわち親密圏であるということになる。
「今はクラブとかでも2メートルの間隔をとって踊るようになってるんですよね。ある程度は仕方がないことだと思うけど、まるで磁石の同極同士のように、人と人とが隔てられている。だから、今回はその隔たりの内側に入っていきたかった。僕たちは完全な他者ではないし、一緒に制作していて、一緒に生活もしてる。そういう親密な関係における距離を改めて考えたかったんです」(TAKERU)
果たして、つないだ靴を履いて渋谷の街を歩く二人の足並みは基本的にはスムーズで、ともに暮らし、ともに制作してきた5年という月日の深さと重さの一端がうかがい知れた。だが、それでも時に二人の距離が近づきすぎると、紐はたわみ、足はもつれてしまう。あるいは、時に一方がよそ見をして離れすぎてしまうと、つないだ紐はピンと張りつめ、その何本かは千切れてしまう。どうやら付かず離れずが上手に歩くためのコツなのかもしれない。心許なく伸びては縮みを繰り返す紐の様子はどことなく人と人との関係の儚さを暗喩しているようにも見えた。あたかもこの紐がすべて千切れてしまったら、そのとき、二人の関係性もまた途切れてしまうとでもいうかのような。

実は、二人には靴にまつわるこんな思い出がある。
「以前、二人で大げんかしたんですよ。それは初めてニューヨークに二人で行ったときで、私にとってはそれが初めてのニューヨークだったんです。ギャラリー巡りするのが目的だったからTAKERUは『登山靴みたいなの履いておいでよ』って言ってたんですけど、ただ私はヒールを履いていって。せっかくのニューヨークだからオシャレしたいなって思ったんですよね(笑)。でも何十軒とギャラリーを巡ってると、やっぱり足が痛くなってきて歩くのが遅くなってくる。どんどん二人の距離が離れていって、それで地下鉄に乗るところで大げんかしたんです」(KANAE)
「いや、あのときは悪いことしちゃったなって思ってます。初めてニューヨークに行くんだから、そりゃオシャレくらいしたいじゃないですか。それなのに早く歩けって急かしすぎちゃって。それこそあのときの二人の距離はすごい離れていたよね。まだ出会って2年目くらいでお互いのちょうどいいディスタンスがわかってなかった気がする」(TAKERU)


多分、そのころにこのパフォーマンスをやっていたら、紐は早々にすべて千切れてしまっていたかもしれない。流行という現象の基底には「同調化と差異化の両価性」がある(つまり、人はみんなと一緒でありたいという欲望と、みんなとは違う特別な個でありたいという欲望を同時に抱え持つものであり、それが流行という現象をドライブしている)と喝破したのは哲学者のゲオルク・ジンメルだったが、親密さもまた同じだということだろう。KANAEは「バラバラの個を認めた上でつながりたい」と言っていた。付かず離れずのアンビバレンス。「距離」は残酷で、そして優しいのだ。
「例えばKANAEと頭のなかを交換したとしたら、まったく別の世界が見えてくるわけですよね。この距離ですらそう。互いの考えてることなんて決して認識しきれない。言葉って拙いし、脆いものだから、いくら言葉を費やしたところでそれは変わらない。だけど、作品を一緒につくるということを通して互いを認識し合える瞬間もあって、その繰り返しなんです」(TAKERU)


「靴って基本的にふたつで一足という単位でカウントされているじゃないですか。個体としての単位がないんです。それはどこか自分たちの活動スタイルにも似てる。それが個人としては拘束力を感じることもあるし、疲れるときもあるんだけど、やっぱり面白いときもあって。TAKERUに限らなくてもそう。例えば同じ日本人という括りのなかでもこんなに人は違うんだってことを実感させられることは多々あるじゃないですか。人はバラバラで、でもだからこそ、逆に何かを奇跡的に共有できたとき、大きな喜びがあるんですよね」(KANAE)
気がつくとクラブ・Contact Tokyoに到着していた。薄暗いダンスフロアーを揺れるふたつのSUPERSTARのあいだには、相変わらず詰めきることのできない「距離」がある。「僕らはどこまでいっても他人で、それに気がつくと虚しくもなるし暗い気持ちにもなる」とTAKERUは言う。でもだからこそ、「一緒に制作することができる」。
これは多分、前提の話なのだろう。人と人とがつながれると前提にした場合、些細なズレばかりに目がいくようになる。一方、人と人とはそもそもバラバラであると前提した場合、ほんの小さな接点にだって愛しさを感じることができるようになる。だから、二人三脚ではなく、二人四脚。あるいは、それはMESが「距離」をめぐる制作と思索を続けてきたなかで到達した、ひとつの倫理のようなものなのかもしれない。


倫理、と言えば、MESにとって重要な倫理がもうひとつある。それは「不安定さ」の上に立つこと。
「いつもはっきりしないところがあるんです。わかりやすく言えば、私たちにはクラブカルチャーと現代美術の狭間に立っているという気持ちもあるし、石巻では被災地と東京の狭間に立ってた。『抵抗の距離』でもそう。はっきりした立ち位置に身を置くことができない不安定さみたいなものがずっとある。でも、今は社会そのものが誰の目にも明らかなほど不安定になってますよね。そして社会が不安定になればなるほど多くの人は安定志向になる。ただ、その安定のために何かが強引に継ぎはぎされてしまうのだとしたら、そこにはきちんと反発したいという気持ちが強くあって。だからやっぱり不確実な存在でいたいし、不安定なところに立っていたいんです」(KANAE)


Contact Tokyoのディスタンス・テープもMESによるもの。この日はあらゆるエクスペリメンタルな音楽/アートなどが記録されるカルチャーメディア「AVYSS」のイベントが盛況のうちに開催され、MESに関わる多くの知人・友人も集っていた
不安定さを嫌い安心を求めてしまうのは、人情というものかもしれない。だが、安心とは自らの視界を閉ざすことによってかろうじて成り立つ虚妄でもある。安心を意味する英語「security」の語源はラテン語の「secura」。接頭詞「se」には「離れる」という意味があり、「cura」には「気遣い」や「配慮」という意味がある。つまり、安心=securityを得るとは同時に、他者への気遣いや配慮から遠ざかることでもある。
だからかもしれない。不安定さに立脚するMESの作品は、複雑に織り込まれたコンセプトのラディカルさとは裏腹に、その感触には常に優しさのようなもの、いってしまえば「cura」の気配がある。
「311以前以後でアーティストの態度ってだいぶ変わったと思うんです。僕らは活動をちゃんと開始したのが2015年で、つまり最初からポスト311を生きているんですよね。シリアスで、暗さがあって、どこか突き抜けづらい。でも、これだけカオスな社会なんです。ガツンと思い切ったことをやってさらにカオスを起こすというのとは別のやり方を考えたいし、いつも考えてます」(TAKERU)
「TAKERUの言う通り、311以降、鑑賞者にアーティストが作品を提示するときにケアを前提におくというのが自明のことになってきてる。そもそもホワイトキューブ的な空間に作品を持ち込む時点で鑑賞者と作品との関係は安全ではあるんです。安全にしなきゃいけないともされてる。もちろん、そのなかでもがきたいという気持ちは強くあります。ただ、これだけ多元化している世界で、反旗をひるがえすとか、カウンターを打つにしても、今はその構図自体も絶えず揺れ動くものなんだっていうことをしっかり自覚しておかないと、すぐに的外れでアウトオブデイトなものになってしまうと思う。だから、制作プロセスにおいてはギリギリまで危ないところを攻めていきたいけど、展示として鑑賞者に開かれるときには作品と鑑賞者との距離には常に意識的でありたい。多分、それは震災以前にさまざまなアーティストたちがやってきたこととは違うのかもしれないし、あるいはそれはアーティストとして超えなければいけない距離なのかもしれないけど」(KANAE)

そう言ってKANAEはほんのり苦笑する。逡巡は尽きることがない。が、今夜はせっかくのパーティーなのだ。あの白々しい朝日がのぼるまで、小難しいあれこれについてはいったんコインロッカーに預けておくことにしよう。
最後に振り返りたい。SUPERSTARを用いて行われた今回のパフォーマンスにおいて、MESは再び「距離」と向き合った。その「距離」は「二人の距離」でもあり、また「人と人との距離」でもあった。みんなでつながってひとつになろうだなんて傲慢なことをMESは言わない。決して詰めきることのできない「距離」への失望のなかで、だけれど微かにつながれたと感じられる瞬間の光線に、MESの希望の掛け金は投じられている。希望は失望へと反転し、そしてその失望は再び希望へと反転していく。不安定さに立脚し、確かな問題意識を携え、ラディカルに社会と対峙しながら、しかしcura=気遣いを欠くことはなく、MESは今も悩み続けている。強さと優しさ、確かさと儚さ、正しさと愚かさ、眩暈のするようなアンビバレンスに、幾度も繰り返しピントを調整し直しながら。
加えて、そんな泥臭いまでの誠実さとは裏腹なこのスタイリッシュなビジュアル。もうお気づきだろう。MESこそがSUPERSTARだ。

谷川果菜絵(KANAE)と新井健(TAKERU)が2015年に結成した日本のアーティスト・ユニット。東京を拠点に国内外で展示やパフォーマンス、ライブイベントを開催。レーザーや仮設資材を多用し、クラブカルチャーと現代美術の接触を試みるなど、マージナルな位置から社会を観測する作品を展開する。近年の出展に、個展「DISTANCE OF RESISTANCE/抵抗の距離」、「TOKIWAファンタジア2021」、「Reborn Art Festival 2021夏」、「Media Ambition Tokyo 2021」、ANB Tokyo「ENCOUNTERS」など。これまでNew Balance「LAZR」発売記念イベントやNIKE「ATELIAIR」など、シューズブランドのイベントに度々参加。ミュージシャンとのコラボレーションでも精力的に活動しており、kZmやsleepyheadワンマンライブ、Red Bull THE WHITE EDITION(2020)のセッション映像や数多くのミュージックビデオの演出を担うほか、「TECHNO INVADERS」、「WAIFU」など東京のクラブカルチャーを支えるパーティーのVJを数多く務める。また『EYESCREAM』『GINZA』で特集されるなど、ファッションメディアでも注目を集めている。
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